ママ塾じゃなかった。
前のブログからのお客様。またまたの内容なのでスルーを。
子どもが自宅メインと知ると、十中八九ママ塾なんですね。と返されます。
違います。教えていません。
といっても、中々信じて貰えません。
教えられるのは社会だけ。
でも極力”教えない”ようにしていました。
別段、昨今流行の”教えない勉強法”を実行している訳では無いです。
私は、社会だけは自転車操業的な部分はあっても、全科目を高校まで教えられると思います。
しかし、それを”続ける”のは時間的制約なども含めると、何時か破たんが来ると容易に想定出来ました。
いつまで、勉強を見るのか?
を考えると、自分で学ぶを小学生の内からある程度身につけて欲しいと思っています。
今から数年前、中学受験における塾の役割をネットで調べました。
スパッとした物は見つからなかったです。
そして、今調べてみても似たような状況のままでした。
私が考える塾の役割。
1.勉強を教える。
2.適切な勉強量・質を提供する。(ほとんどのケースでは過多ですが)
3.勉強の場を提供する。
4.誤った方向を修正する。
でしょうか。
6年生になると、これに、
5.適切な進路指導。
6.問題の傾向とその為の対策。
が加味されます。
個人的には、
自宅学習メインで、1を意識している方は、かなりの確率で挫折すると思います。
自分が出来ない=教えられない
となりますから。
”教える”で生活している人と同じレベルの事をしようとする事自体、若干の無理があるのです。
もちろん、出来る親御さんもいるでしょう。
しかし、全教科となるとどうかな?と思う訳です。
じゃあ、ママ塾は駄目なのか?となると、そうも思っていません。
2-4は、家庭の方に軍配が上がるケースが多いかもしれません。
特に4は自分の子だけを見ている訳で、”それは合わない”が判りやすいでしょう。
ただ、”合わない”は比較する対象が有った方気づきやすいのも事実です。
長い前フリでしたが、では”教えない”でどう自宅メインでしてきたか。
これを実現するために、学校という要素も大きいですが、低学年から準備して来た訳です。
中学受験準備と同時進行出来たかもしれませんが、
私は
”毎日決められた時間・量学習をする。”
を第一としました。
中学受験の準備を、これから始めるのは怖かったのです。
低学年から始める事により、子どもの癖・テンションの上がり・下がり方などもチェックしていました。なので、低学年時は準備体操という考えを持っていました。
そして、中学受験準備を本格的にすると決めた時、
まず私が舵取り出来る・出来ない教科に分けました。
算数は外にお任せする=教えるには口出しはしない。
その他3教科は私でもいけるのではと判断しました。
その結果、子どもが自宅学習中、算数の問題が判らない場合の対処法としては、
”解説書を1行づつ”読み上げ、本人に確認しました。
その時”塾”やり方と一緒かもチェックしました。
そして一緒であれば、例えば”3行目から判らない”と塾に持って行かせました。
解説すら判らない場合。
(私が出来る出来ないは別として)どう考え始めるかを見せました。これは違うアプローチがあると気づかせる事になったようです。そして、私がひっかかる問題は、かなりの高確率で途中子どもから駄目だしが出ます。
私が”教える”ではなく、せいぜい”解説書を読みながら一緒に考える”。
最悪は”教えて貰う”スタンスで来ました。
振りじゃなく”素”で子どもに教えて貰う。
私のプライドとかは”屁”と一緒ですから、問題無しです。
時間が掛かります。効率も悪いです。
でも、本当に時間が無くなった時、
教えなければならない事を考えれば、それもありだと続けました。
後、家の場合は、主人は出来るけど教えられない人なので、
最終的には”解き方を見せる”で落ち着きました。
そういった意味で算数は、まったく教えていないと言えます。
国語は教材を選びは私、やるのはシアンとほとんど教えていません。
説明文に限れば教材に助けられましたし、ネットの情報にも感謝しています。
物語文は、シアンの資質・・”普通の感性”が判らない子だと気づくのが遅くなり、
物語文は難関校レベルには達する事ができず、これは判断ミスだったと思っています。ただし、それ以外の分野の読解は、答えの見つけ方は教えることが出来ました。
しかし、これは教えるという事に入るのか・・甚だ疑問でもあります。
理科は、最初はものすごくてこずりました。
私は教えることは出来ない、シアンは好きだけどどう勉強したら良いか判らない。
ノートにまとめるがまだまだな中学年時だと、結局教科書丸写しになっちゃうのです。
結局、これはシアンの能力に有ったやり方を見つけて対応して貰いました。
模写が非常に得意だったので、まず図を書き、説明を書き加えるという方法でした。
なので、やはり教えるという感じではありません。
社会は、時折教えていました。
ただし、極力教材の使い方を意識できるようにやっていましたし、全部とならず、判りにくい所のみを意識していました。
それでも社会に関しては、他流試合も含めてどの塾講師より判りやすかったようで、シアンの中では絶対的講師として未だ君臨しているのは自慢です(w
と書くと、家の子は全然出来ないので、一から教えないと・・・というご意見もあるかと思います。でも、どこを1からとするかの判断とか、なにを教えるという事を意識してもよろしいのでは無いのでは?
”教える”のみを主眼に置くと厳しいのではないでしょうか?
というお話でした。